Omoidegraphy

写真ブログです。ストリートスナップ、バンドのライブ撮影をしています。

写真を撮る理由は「真を写す」から。

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良く言えば哲学的。悪く言えば...。

自分がなぜ写真を撮るのかを考えてみました。

なぜ写真を撮るのか

何かをやっていると、次第にその意味とか、やっていることの価値、理由なんかを知りたくなることがあります。

写真もまた同じ。写真の価値とは何なのでしょうか。よく言われるのは「他人の心に訴えかけるかどうか」ですよね。

とても難しく感じます。わたしも含め、写真を撮る人のほとんどは、ただ自分が楽しんでいるだけだからです。いわば「趣味としての写真」。

だからなのか、ふとした瞬間に思うことがあります。あの時なぜシャッターを切ったのか。どうしてそれを撮ろうと思ったのか...。

ずっと疑問だったのですが、少しずつわかってきました。

なぜ足元ばかりなのか

まずは下の写真をご覧ください。
すべてiPhone6sで撮りました。手軽に撮ったからこそ、素の感情が宿っているはずです。

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足元専門ではないのですよ(笑)

写真を撮るときは、自然と足元を意識することが多いのです。

見えていない幸せ

さて、ここで本題です。どうして自分は、足元を撮ることが多いのか。

今までにも何度か考えたことがありましたが、未だにいい答えが見つかりません。あれこれ考えた結果、今のところの答えはこうです。

「普段は気がつかない幸せに目を向けたいから」。

“見える”と“見る”

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たとえば、外を歩いているときを思い浮かべてみます。あなたもわたしも、きっと何メートルか先をまっすぐ見て歩いているし、横方向へはおそらく、目の高さから水平方向に見ることが多いはずです。

まさか道路の側溝の、すみっこに咲いているたんぽぽなんて見ていないはずです。ガードレールの真下に溜まった落ち葉なんて、たぶん見ていないでしょう?。

上の4枚の写真もそう。水たまりに反射する景色も、日向と日陰のコントラストも、人の歩く影だって。“見えてはいる”が、“見ていない”のです。

www.masato07.com

足元の景色とは、まさに「見えてはいるが見ていない世界」です。写真を撮るとき、頻繁にそこに目を向けるのはなぜなのか...。

きっと、写真を撮るという行いがトリガーとなって、「普段は気が付かない何かに、気が付きたい」という潜在意識が、意識上に浮上するのではないかと思います。

幸福の所在

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幸せになりたい。誰もがそう思っているはずです。

幸せはどこにあるのでしょう。ある人は「今この瞬間」と答えるし、別の人は「あるのではなくて創るもの」と答えるかもしれません。わたしなら「足元」と答えます。灯台下暗し、の考え方です。

すでに“何か”は手の中にあり、足元に落ちているはずなんです。もうずっと前からそれを見ているし、ずっと前から知っているはずなんです。でもそれが何なのかがまだわからなくて、わかりそうでわからない状態が続いています。

【没頭、瞑想、運動】先週からの報告です。 - 3年後の私をつくろう

自分のメインブログからの引用です。

必要なものはすでに手に入れている...。そんな考え方です。

写真に反映されている

「幸福」とは、というお話をしていますが、写真とも大いに関係があるはずです。なぜなら、撮影するという行いがあまりに表面的だからです。普段そんなふうに思うことがないだけ。

  • どうして今撮ったのか?
  • どうしてそれを撮ったのか?
  • どうしてさっきは違うと思ったのか?

これらは全部、撮影した人の根源的なもの、もっとも深くにあるものとつながっているはずです。うまく言葉にできず、フワフワしているのですが。

要は、幸せになりたいという根源的な問いの答えが、写真に反映されていると思うのです。そんなことを言いたかった。

真を写す

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さきほど、こう言いました。

足元の景色とは、まさに『見えてはいるが見ていない世界』です。

世界と幸福を入れ替えてみて、わたしは納得しました。『見えてはいるが、見ていない幸福』です。自分の中では、足元と幸福が近い意味を持っているんです。その意味では、カメラを手にすることは、自分と向き合うことにもつながります。

そもそも、『写真』とは『真を写す』と書きますね。この「真」とは何なのか。

目の前の<現実的な景色>の他に、撮影者の<精神的な景色>があるのではないでしょうか。そんなふうに思います。

まとめ

難しいことを考えてしまいましたが、こうした「なぜ?」の向こう側に真理があると思っています。真理とは、真(まこと)の理(ことわり)。自分という人間の“ことわり”を知ることは、自分オリジナルの幸福を見つけることにも等しいです。

わたしは、自分にとっての幸福を知りたいがために、写真を撮っているのかもしれません。


 

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